ペンネーム NAGAO
前回私の先祖の手掛かりになるかも知れない書物、石川県の郷土資料『町野村志(輪島市町野町 近辺の寺や旧家についての記録がまとめられた大正時代の書物)』という古書を図書館で発見するに至った~というところまででした。
※『町野村志』江尻寅次郎 石川県鳳至郡町野村 町野史談會 大正15年発行
~『町野村志』の記述~
『長尾家元祖ヲ長尾為景トナス、如何ナル故アリテカ為景晩年此地ニ隠居シ名ヲ三郎平ト改メ後同村廣江曹洞宗智徳寺第二代住職トナル』と有り、能登長尾家初代は長尾為景(「越後国の戦国大名。越後守護代・越中国新河郡分郡守護代。」晴景・景虎の実の父)である?とのこと。
今回から『町野村志』の記述についての信憑性・可能性を、独自に調査した結果で解釈してみたいと思います。
まず『町野村志』の記述を、単純に現在の奥能登に置き換えてみます。
『廣江曹洞宗智徳寺』とは石川県輪島市町野町広江に現存する(現在、住職は不在)曹洞宗の智徳寺という寺のことの様です。
『町野村志』の智徳寺についての記述では、『開基ハ明應九年(西暦1501年)ナリ』とあります。
初代ではなく「二代目住職」が長尾為景とのことですので、これが正しければ一般的な通史での、家督を長尾晴景に相続した西暦1536年とほぼ同時期ととってよいと思います(智徳寺初代住職は約35年間在職であったと考えると、期間としては十分あり得ます)。
つまり為景は隠居後、越後から能登へ渡ってくることが可能であった時期でもあるのです。
以前(30年くらい前)長尾為景は隠居して間もない天文5年12月24日(西暦1536年2月4日)に死去したとされていました。
しかし近年の研究によると、それは間違いであった可能性が高いようです。
その理由として、主に下記①・②・③の古文書の存在です。
①『上杉家御年譜』・②『上杉氏年表』・③『定本上杉謙信』
この三つが現存しており、その中の文書で、天文5年以降の為景の生存が確認されたそうです。
※参考文献『国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989.9当館請求記号R210.03/95/10)p552:「?-1542」 戦国時代前記の武将』
以上の文書によると、没年は天文11年12月24日(西暦1543年1月29日)とのことらしく、現在ではこの説が有力視されています。
晩年については『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』では、「晴景に家督を譲った後も実権を握り続けた」とも説明されているそうです。
ただ現在の学説でも、為景の死因は時期も場所もはっきりしていません。
少し前までは『般若野の戦い』永正3年9月18日(西暦1506年10月4日)に越中般若野(現在の富山県砺波市)で行われた同国の越中一向一揆と越後守護代・長尾家との間の戦い(芹谷野の戦いとも?)において戦死したとされる見方が、小説などの創作?のため一般的な認識でした。
現在も富山県砺波市頼成新に長尾為景塚が存在します。
※因みに、上記で触れた小説とは、1962年に刊行された「海音寺潮五郎」著の小説『天と地と』の事で、その中においてもこの説が採用され、長尾為景は越中にて一向宗に打たれています。
しかし、この説は学者間では(当然)否定され、為景の父 長尾能景の戦死と混同されているそうです。
現在の学説では以前と死期がかなり異なり、『般若野の戦い』より40年ほども長く生きていた事になります。
~長尾為景について、ちょっとここまでを整理~
①以前の通史は、天文5(西暦1536)年に為景は嫡子である長尾晴景に家督を譲り、自身は隠居して出家、そして同年亡くなったとする説が有力であった。
②『上杉氏年表』や『定本上杉謙信』によると、天分11(西暦1542)年頃まで生存し、「晴景に家督を譲った後も実権を握り続けた」とのこと。
上記①から②へと学説が変わり、現在最も史実に近いとする説です。
その説②と『町野村志』の「長尾為景能登国渡来説(次回からはこう呼ばせてもらいます。)」は繋がってくるのか?
次回は「長尾為景能登国渡来説」に、その必要性・理由はあったのか?という視点から、通史をベースに想像・推理してみたいと思います。
その「必要性・理由」に根拠があるならば、『町野村志』の記述の信憑性もより上がってきます。
『町野村志』の信憑性が上がれば、能登長尾家とも繋がってくる可能性も増します!
さて、その根拠とは如何なるものか!?
【次回へ続く】
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kagenobu (月曜日, 07 5月 2018 21:52)
我が家の先祖の土地に関係する長尾家は越後で 系図に為景の没年場所が記載されています 天文11年4月 越前にて戦死とあります 家紋は何を使われているのでしょうか 喪しかすれば 越後に関係する数家がこの近くに移り住んでいますので 関係があるかもしれません